作品に罪はない?
悪いことをすると罰を受けます。悪いのは犯人でしょうか? それとも犯罪でしょうか?
悪口を言って人を傷つけました。悪いのは悪口を言った人でしょうか? それとも言葉でしょうか?
恥の多い生涯を送ってきました、から始まる有名な小説がありますが恥の多さなら僕にだって一家言あります。口から勢い任せに出た言葉が知らないうちに人を傷つけたり、感情のままに移した行動がいろんな人に迷惑をかけたり嫌な気持ちにさせたことが、気づいているものも気づいていないものもたくさんあります。それをわかっていながらやめられないことが僕の罪です。
でも、自分が発した言葉や行動の中に、美しいものを見たときに美しいと感じる価値観に、汚泥の中に沈む金貨のように価値を感じることがあります。掻き分けて、掻き分けて、それを捕まえて集めたものを磨いて綺麗に並べることが、死にたくならないように生き長らえる唯一の手段で幸せなことなのかなと最近は考えてます。
創作者はよく「作品と作者は切り離して考えるべきだ。誰が作ったからいい作品、とか犯罪者の作る作品は悪い作品、みたいな見方をするのは本質を見ていない証拠だ」と言います。ある意味では正しいし、そういう見方ができるよう努めてもいます。
その一方でやはり創作者の生き様や考え方、言葉も「作品」としてとらえている自分もいて、触れた作品に感じた価値観と矛盾するようなことを言ってたりするとがっかりすることもあります。でもその矛盾はきっと誰しもの持つ汚泥なのでしょう。
人間はとにかく白黒つけたがるし0点か100点を決めたがります。味方か敵か、勝ちか負けか、善か悪か。でもその体から絶えず流れ出すいろいろなものがすべて同質なのはおかしいな、と思います。綺麗な言葉も出れば人を傷つける言葉も出るし、頑張れた日もあれば頑張れない日もある。
「善人」も「悪人」もいません。あるのはその瞬間にある一つ一つの現象だけです。その現象の中で美しいものを集めたのが芸術だから、そこに人間の美しさが宿るのです。(補足ですが、僕は「悪行」は嫌いです。だからこそ自分自身の悪行に苦しむわけですが)
「芸術至上主義」という言葉があります。
ヨルシカのn-buna(ナブナ)さんがよく言っている言葉で、芸術は芸術そのもののために存在する。教訓や道徳のために作られるものではなく、ただ芸術が芸術として存在することにのみ価値があるのだ、という考え方です。19世紀のフランスで生まれた言葉です。
……正直意味不明ですよね。ただ、自分なりに咀嚼するとさっき上で言ったようなことなのかなと解釈しています。人間から漏れ出した感情や価値観、優しさや感謝や怒りや嫌悪の中に感じる一瞬の美しさを捕まえ目の前に顕現させるために、表現するために芸術というものはあるのかなと思ってます。僕の言うことも意味不明ですよね。だからみんな創作しようぜ!
ナブナさんはこうも言ってました。
「ヨルシカの曲が好きだと言ってくれることは嬉しいけど、この先も思考停止で好きでいることはいけないよ。自分が美しいと思えるものだけ追いかけてほしいし、この先ヨルシカが嫌いになることがあったら僕はそれに拍手を送りたい」
ナブナさんは、ヨルシカは間違いなく僕の人生に最も大きな影響を与えたアーティストですね……。だからこそこれから先、彼の作品を自分がどのように感じていくか、変わるにしろ変わらないにしろ楽しみです。
最新アルバムの「盗作」を聴き、ナブナさんが書いた小説を読んで深夜に殴り書きした結果こんな文章になってしまいました。ぜひ買ってね!